何にお金を払っているのか

 また古くカビの生えたチェーンメールみたいな話を見てしまいました。コトがある毎に蒸し返される話です。

 いるんです。酒屋のおやじが高そうなクルマに乗っているのはけしからん、納骨堂より住職の住宅が立派なのはけしからん、募金の全額が救援事業とその直接的経費に使われないのはけしからんなどと、正論ぶって言う人が。誰のおかげで世界の銘酒が居ながらに飲めて、誰のおかげで先祖の供養ができて、誰のおかげで困窮者に必要な援助が届くのか。酒屋社長の道楽費用を払いたくないなら、社長がアルトに乗っている店を探してご自身が買えばいい話です。手に入る酒もたぶん同じでしょう。そこで高級車が好きな社長をことさらに批判する必要がどこにあるのか、私には理解できません。

 それから演出や広報の重要性についても考えが希薄な人がいます。どうして報道や広告に携わる業種に高給取りが多いのかというと、それだけ社会へのプラスの影響度が高いからです。彼らが人の心理や行動を大きく撹拌することで、経済は新たな価値観と出会いながら成長するのです。広告宣伝なしでモノが売れるならどれだけ楽か、人脈が乏しい中でビジネスを拡げることがどれほど難しいか、商売をしている人ならわかるはずです。どんなよい活動も商品もサービスも、多くの人に知れ渡らなければ多くの人を幸せにはできません。

 例えば広報や人脈や一見むだな経費に20億円もかけて一年で集めた100億円と、派手さを慎みこつこつ何年もかけて集めた数十億円と、結果的にどちらがより多くの人を救えるのか。
 それでも、オレの財布から出たこのカネは、この酒の仕入れ原価と最低限の販売コストにしか使うことを認めない。そんな情報リテラシーが高く聡明な紳士なら、せいぜい「こっちで買う方が安いよ」と知人に知らせるにとどめるでしょう。

 要はこれは、お金を払う側が好みで選択をすればよい話。判断に十分な情報公開があるかどうかの話。その店(組織)が良いとか悪いとかの話ではないと思うのです。
 24時間テレビが嫌いなら見なければいい。ちなみに私は見ない。でも今まで動かなかったお金が24時間テレビがきっかけで動くなら、私はそれでいいと思います。

 非営利を標榜(あえてこう書く)する無償ボランティアであれ慈善事業であれ、それが多くの人の(非営利であるが故の)経済的犠牲の下に成り立っているのなら、その非営利性(とコスト最小化)に潔癖なまでにこだわることは支援を求める人も含めた経済活動全体にとって負の圧力として働きはしないか、私は心配になるのです。
 ただ以前にもこのブログで書きましたが、だまし討ちのような方法でお金を集めるのは、それが善行に使われるものとしても私は好きではありません。大切なのは、正当に動機付けされて支払われ、そのお金は何に使われるかに可能な限りの透明性があって、結果として支払った人も納得をし、より多くの人が幸せに近づけることだと思います。